兄の事故
兄が事故にあったのは私が高校生の時でした。
その知らせを聞いて私が駆け付けた時には、兄はすでにたくさんのチューブに繋がれていました。
スパゲッティ症候群という言葉は知っていましたが、血を分けた兄弟が実際にそうなっているのを見るのは本当に辛かったです。
意識がなくて脳が損傷を受けていまいしたが、自発的に呼吸はできるのでごくわずかですが意識が戻る可能性があるということをその病院の院長先生に告げられました。
その日は、家に帰り、次の日の朝私と母は兄の様子を見にきました。
兄は相変わらず眠ったままでした。
私はその後学校に行き、母は、昼前まで兄の様子を見て家に帰ったそうです。
学校帰りにも病院に行き、もう一度兄の顔を見てから家に帰りました。
家の中は静まり返り、母も父も何も言いませんでした。
せっかく作ってもらった夕食も喉を通らず、無理やりにでも腹に入れようとした時、家の電話が鳴り響きました。
母は電話の相手を察したのか青ざめ、父が立ち上がり受話器を取りました。
電話の相手はやはり院長先生でした。
「すぐに病院に来てほしい」と言われ、私たちは兄の入院する病院に向かいました。
脳死、そして…
病院に着き、兄の病室に行くと、彼にはさらに多くのチューブが取り付けられていました。
病院の先生は私たちに一礼すると、兄が脳死状態になったことを告げました。
母は泣き崩れ、私は何が起こったのかがしばらくわかりませんでした。
兄は現在生命維持装置を取り付けられ、生きている状態でした。
父は私に母を泣き崩れる母を連れて「外に出ていなさい」と言いました。
母の肩を抱き、病室の外に出て父と先生の話が終わるのを待ちました。
10分ほど話したところで、父は病室から出て、小さな声で「帰ろう」と言いました。
道すがら父は、兄の延命をどうするか先生と相談したと言いました。
もう、助かる見込みがないことを伝えられたそうですが、「せめてもう少しだけ別れまでの時間がほしい」と伝え、数日間、生命維持をすることになったそうです。
「明日は学校を休んでもいいから、一緒にいてやりなさい」と言われ、私は小さくうなずきました。
次の日の朝、食欲がある程度回復した私は朝食をとっていました。
すると、電話が鳴り響き、父と母が病院に行く準備をしていたので、私が応対しました。
何となく、予感はあったので不思議と電話をとる時は落ち着いていたのを覚えています。
電話の相手はやはり、病院の先生でした。
先生は、私を気使ってくれたのか、お父さんかお母さんに代わってもらったほうがいいかも知れないと言いましたが、私は受け止めますので要件をお願いします、と強がって言いました。
しかし、兄が死亡したことを告げられると、涙を止めることはできませんでした。
私が泣いていることに気づいた父が電話を取り上げ、先生にすぐに病院に行きますと伝えました。
病院に着くと、昨日までのチューブだらけではない、兄の姿がありました。
しかし、顔は傷だらけで事故のすさまじさを物語っていました。
母は泣きじゃくり、父も静かに涙していました。
私も耐えきれなくなり、兄の身体を抱えて泣いてしまいました。
その時の兄の身体は不思議と軽かったのを覚えています。
今思い返すと、いつかどこかのサイトで見た、人は死ぬと魂の分だけ軽くなるという話を聞いたことがありますが、もしかしたらそれは本当なのかもしれません。
そんな私を見て、先生は私を兄の身体から引き離すと「治療費はいりません。遺体を見るのも辛いでしょう。一刻も早く思い出と一緒に焼いて、この姿は忘れなさい」と言って、兄の身体にシーツを、顔には白い布をかけました。
そして、先生は泣く私の頭をなでながら「大切な家族を亡くして辛いだろうけど、お兄さんの分もしっかり生きなさい」と私に優しく声をかけて病室を後にしました。
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